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メディアアートのアウトライン/落合陽一『魔法の世紀』

書評 人文科学

 

魔法の世紀

魔法の世紀

 

 著者の落合陽一は大学の教員であると同時にメディアアーティストでもある。なので、若干我田引水感の否めないアート論ではある。とはいえ、さまざまなメディアアートの説明をながめてるだけでも楽しいし、アウトラインとしても十分。この本で描かれた未来がやってくるかどうか楽しみ。

 

まず、落合が実際にやってるメディアアートと、それと似たようなアートの紹介はとても面白い。触ることのできるプラズマやらシャボン玉スクリーンやら、数年前は想像もできなかったような突飛なアートが次々とうまれているようで、説明を聞くだけ、あるいは写真を見るだけでも結構面白いと思う。オールカラーで見開きの左半分がこういうアートの写真、右半分がその解説で100ページくらいある写真集とか、あったら意外と売れるかもしれない。

そういったメディアアートの批評的文脈を、文字文化や映像文化の批評と交えて説明する部分もまあ大丈夫。当然ながら落合はメディアアーティストなので、どうしても文字文化や映像文化を(相対的に)貶めて、落合がいうところの「魔法文化」を持ち上げる構造にはなってしまうので、まあ我田引水かと思ってしまうところもある。でも、大きく間違ってるっていうところもあまりないかなあ。ついでに、いろいろな新しい文化を考察する上で示唆に富んでいる部分も多い。

 

ただ、落合が一番主張したかったであろう、「魔法の世紀」という概念については……微妙。

文字や映像が前の時代において支配的なメディアであったのは、表現されるものをかなり広い範囲に伝えることのできる、「文化的インフラ」みたいなものが成立したからだと思う。文字については活版印刷術とかで、映像においては映画館とかテレビとかYoutubeとかが「文化的インフラ」にあたる。では、「魔法の世紀」における「文化的インフラ」は何か? 落合が想定しているのは、おそらくパソコン。ぼくもそう思う。

そう思うんだけど、実はこれは半分ぐらい間違っている。なぜなら、現在は各家庭のパソコンで、落合が作った「触ることのできるプラズマ」とかを楽しむことはできないからだ。落合は「可搬性が支配的なメディアの条件」みたいなことも言っていて、これはその通り。だからこそ、落合が主張する「魔法の世紀」における可搬性がどういった性質のものなのかが見えてこないと、「魔法の世紀」という議論はあまり説得力のないものになってしまうかなあ。

 

ということで、示唆するところはいろいろあるけれどもまとまりは弱い本。でも、輝かしい未来像も想像していることだし、なかなかおもしろい本だと思う。ついでに一応写真集としての価値もある。

 

 

余談。この本では「映像の世紀」と「魔法の世紀」として、3D映画「アバター」を挙げていてそれはその通り。で、なぜか思い出したのがロシアの楽器「テルミン」(上坂すみれ嬢の演奏で有名!)。テルミンってどういう文脈に置かれるのかしら……?