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自然主義文学とSFが交差するとき物語は始まらない/前田司郎『恋愛の解体と北区の滅亡』

 

恋愛の解体と北区の滅亡

恋愛の解体と北区の滅亡

 

 これは本当にすごい!!! なんで今まで前田司郎読んでなかったんだ。

SF的なモチーフっていうのはたぶん、ある種のスタイリッシュさを前提にしている(あるいはエンタメ全般?)。でも、ぼくたちの住む現実世界はそんなにかっこいいものではない。そこが、フィクションと現実との境界線なんだと思う。前田のこの短編2作は、そんな境界線をあっさりと消してしまう。そのことによって、唯一無二といってもいい地位を確保していると思う。

 

日本文学の系譜において、現実のダサさみたいなものを直球で描くことによって地位を確保してきたのが、(日本的な意味での)自然主義文学だ。高校の日本文学史の説明で、田山花袋『蒲団』の女中の布団くんかくんかのエピソードを半笑いととも聞いた記憶がある。あるいは西村賢太とかを想像してもいいかもしれない。

ところがエンタメだと、そういうダサさを受け止めるのは難しいと思われる。それは別にエンタメが純文学より劣っているからではなく、エンタメが読者一般を楽しませる機能を求められているからだ。エンタメにおいてもある種のダサさみたいなものが取り入れられることは当然あるんだけど、そのダサさはやっぱりフィクションじみたものなはず。

 

という文脈を考えると、この本に収録されている短編、「恋愛の解体と北区の滅亡」と「ウンコに代わる次世代排泄物ファナモ」は圧倒的に新鮮だ。この小説は、現実のダサさを描く日本的自然主義文学(≠私小説)の系譜とSF的なモチーフとが融合したものだ。しかもそれは、「北区」とか「スタイリッシュな人間がウンコをする」みたいなダサさとSF的なモチーフを混ぜ合わせるのみならず、「性器丸出しの宇宙人」とか「宇宙人がUFOから降りるためにハシゴを出すんだけど引っかかって降ろせない」みたいに、SF的なモチーフそのものをダサく描いてもいる。いやーこの想像力、生半可な作家には生み出せない。

それから、そのようなフィクションと現実の混合は、文体レベルでもあらわれている。この2作では、主人公のナマの思考みたいなものが、一人称小説の語りに突然入ってくる。読んでない人は、いや一人称小説なんだからナマの入り込むのは当たり前だろと思うかもしれないんだけど、そうじゃない(こればっかりは読まないと伝わらない)。一人称小説的な「フィクションっぽい語り」と、ナマの思考みたいな「現実っぽい語り」が混在してて、この2つの語りを行ったり来たりしているのだ。これも前田の意図の一つであり、この2作の魅力だと思う。

あと、この短編2つに共通するモチーフとして、「演技の解体」を指摘しておきたい。「恋愛の~」では主人公は、思いつきからMでもないのにSM風俗に行き、必死にMとしての役割を果たそうとするんだけど失敗する。また、そこで出てくる女王様も実はSでなく、主人公がMではないことがわかると普通の女の子に戻ってしまう。「ウンコに~」では、主人公の彼氏はウンコを漏らしたにもかかわらず、スタイリッシュな自分というイメージを必死に維持しようとして、結局失敗する。どちらも、演技=フィクションが解体されるという図式が、SF的なモチーフが自然主義文学に飲み込まれるのと一致する。たぶんこういうモチーフが採用されているのは、前田が演劇にかかわってきたことに由来するのだと思う。

 

以下個別の感想。

表題作「恋愛の解体と北区の滅亡」は、多少長い上に主人公のナマの思考(=現実っぽい語り)がかなり多くてつらいところがある。数々のテツガクじみた思索も、あんまり小説的に意味を為していないような気もする。それでも、数々の「自然主義文学っぽい」描写は本当に爆笑ものなので十分満足。

「ウンコに代わる次世代排泄物ファナモ」のほうが短くてすっきりまとまっていると思う。特に、主人公の彼氏がウンコを漏らしたのをなかったことにしようと演技したことに対する主人公の感動っぷりは、こちらも心を動かされるものがある(そしてその後の結末にもね)。

 

 

おまけ。

これと似たようなことをミステリーでやったのが蘇部健一『六枚のとんかつ』だと思うんだけどどうでしょう。ただそう考えると、前田のような小説がSF界隈から生じず純文学に発生したのは不思議なところ。