良書だが、邦題は誤訳に近いのでは?/ティム・スペクター『ダイエットの科学』

ダイエットの科学―「これを食べれば健康になる」のウソを暴く

ダイエットの科学―「これを食べれば健康になる」のウソを暴く

 

 私たちが食べるものが、私たちの健康にどのような影響を与えるのかを、科学的な観点から調査した本。著者のティム・スペクターは双子研究の大家で、『双子の遺伝子』では双子の行動には遺伝的な要因による一致が多いものの、エピジェネティクスなどの要因により、確実に一致するわけではない、ということを主張している(らしい。ぼくは未読)。

双子研究という最強クラスの研究を行っていた著者による本ということで、信頼性は抜群。本書で中心となってくる議論は、食事と健康の関係も、遺伝やエピジェネティクス、そして腸内細菌に左右されるため、万人に有効な食事は存在しない、ということ。そしてそれらのうち腸内細菌は、自分でコントロールすることができるため、腸内細菌を大切にすることが大事だ、とスペクターは主張する。

この主張の立証は非常に真っ当。そして、有機野菜や食事の多様性、抗生物質をあまり使わないことなど、少し前であれば冷笑的な人に冷笑されていたような要素も、思ったよりも大事であることが科学的に立証されている、というのは非常に重要。

その一方で、脂質や肉など従来悪者にされていたものが意外と健康に悪影響を及ぼさない(脂質はトランス脂肪酸以外かなり安全、豚肉や牛肉は小さいリスクはあるかも、加工肉はかなりヤバイ)といった知見もきちんと見るべき。まあこの本で言われていることをこのエントリーで全て書くわけにもいかないのでこれぐらいにしておくが、豆知識たっぷりなのでぜひ読んでみてほしい。

 

ただし残念だったのは、ダイエットの社会的意義がまともに考察されていないこと。スペクターは本書の中で、太ってはいるが運動をしている人は、痩せているが運動をしていない人よりも健康的である、と述べている(『ダイエットの科学』、白揚社、2017年、p.51)。 このような事例を考えると、痩せることは必ずしも健康につながらないということがわかる(ぼくも最近、肥満と各種病気の相関は、直接の因果関係ではなく擬似相関なのでは? みたいなことを考えるようになってきた)。

しかしそもそも、ダイエットをする人はみんな健康のことを考えているか? ぼくは、必ずしもそうではないと思う。事実として肥満には遺伝子や腸内細菌の影響がかなり大きいとは言え、「一般的には」太っているのはその人に意志力がないからだと考えられている。そしてそれは、さまざまな場面においてその人を選ぶかどうかの判断基準になっている。それはたとえば恋愛とか、仕事とかだ(むかし就活本を読んだとき、「痩せろ」と書いてあってひっくり返ったことがある)。だから、健康に害があるダイエット法ですら、行うと費用分析的にはプラスになる可能性はある。

でもこの本の著者は、そういった肥満の社会的シグナルとしての性質には無頓着だ。もちろんスペクターはガチガチの科学者であって社会学者ではない。でも、少しぐらいそういったことに触れてもいいのでは? というか、膨大な双子研究を利用すれば、社会的シグナルとしての肥満がどの程度重要視されているかなどもわかるのでは? そういう面は、この本の価値を損なうことはあまりないとはいえ、個人的には残念だった。

 

……と思っていたんだけどさー……これもしかして、誤訳?

 

この本の原題は "The Diet Myth - The Real Science Behind What We Eat" だ。邦題は『ダイエットの科学 「これを食べれば健康になる」のウソを暴く』となっている。

ここで一旦話題を変えて、この本を読んでいたときにぼくが感じたもう一つの違和感を説明しておこう。それは、痩せることに関係ない、病気と食べ物の関係がこの本における記述の大半を占めていたことだ。そして、この本には実は、痩せることと食事の関係はあまり書かれていないのだ。

というわけで、この本に痩せることの話があまり書かれていなかったのにはかなり不満だった(前述の肥満の社会的シグナルもその不満に含めることができる)。でも、この本の原題を眺めていてふと気づいた。もしかしてこれ、誤訳じゃね?

大学受験をした人なら頭の片隅に残っているかもしれないのだけれど、 "diet" という英単語にはけっこういろいろな意味がある。以下は「英辞郎」における "diet" の項目からの引用だ。

1.食べ物、食事

2.食生活、食習慣

3.ダイエット、食事療法、規定食、節食

ここで重要なのは、少なくとも日本では、「ダイエット」という単語は「(食事や運動を通じて)痩せること」という意味で使われていることが圧倒的に多い、ということだろう(wikipediaによると、そういう傾向は世界的なものらしい)。

ではここで問題。この本の邦題を『ダイエットの科学』とするのは適切だろうか? ぼくには、明らかに適切ではないように思える。 "diet" を「食べ物」とか「食生活」、さらには「食事療法」と訳してもいいように思えるけど、「ダイエット」と訳すのはかなり問題があると思う。この本にはダイエットの話題も出てるが、それはあくまでも「食事と健康の関係」の一部であるからであり、主題ではない。というわけで、これはほとんど誤訳に近いと思う。

というわけで、前述したぼくの「痩せることの話があまり書かれていなかったことに対する不満」は、著者にぶつけるのはお門違いだろう(スペクター先生ごめんなさい)。でも、ぼくが途中までこの本がダイエットの本だと勘違いしていたのは、明らかに邦題のせいだ。だから、ぼくの邦題に対する批判は正当なものだと思う。

……一応述べておくと、本の題名は訳者の一存で決まるものではない。この本の邦題も、おそらくは売り上げを優先した結果こうなったのだろう。でもまー、だからといって批判に手心を加える気にはなりません。

 

訳の悪口ばかりを言ってしまったので、良かったところも併記しておく。訳文自体はそれなりに読みやすい文章だ(ただし邦題の時点で誤訳に近いので、どこまで信じていいかは疑問だが)。

しかし、真にすばらしいのは訳者解説。本書の内容の核を大雑把にまとめるだけでなく、日本の状況も併記。さらに、この本を訳すにあたって訳者自身も腸内細菌の検査を試してみたとのこと! 腸内細菌が大事大事と言われるだけだと正直「そんなこと言われてもどうすりゃいいの」となりがちだと思うのだが、腸内細菌検査の体験談なんて書かれたら、そりゃあ読者も腸内細菌検査やってみたくなりますよ。この訳者解説は理想的なものだと思う。