リスク分散としてのフェミニズム(と、渡部直己のセクハラ問題)

早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

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 要約

「女性(あるいはフェミニスト)が一体となって抗議する運動」は、「その運動に参加することによって不利益を被る人」以外の人が抗議しやすいため、リスク分散装置として機能する。なので文学関係者以外のフェミニストは、ちゃんと渡部直己早稲田大学に抗議しましょうね。

 

 ちょっとでも文学かフェミニズムに関心のある人であれば、渡部直己が学生に対してセクハラを働いて、さらに早稲田大学側がそれを揉み消そうとして問題になっているのはご存知の通り。そして非常に残念なことに、文学関係者の多くは口を閉ざしている。ぼくの知っている限りではあるが、豊崎由美とか栗原裕一郎みたいな「文学利権」からは比較的遠そうな人とか、アマチュアの文学ファンとかはわりと批判的に言及をしている。でも、ぼくが好きだった、よくフェミニズム小説を書いている人や、metooなどを含むフェミニズムに対して好意的に言及していた人とかがだんまりなのにはかなりがっかりした(そんな状況なので、松田青子がこの件に関して批判的に言及しているのを見つけて、それだけで感動してしまいましたよ。今度なんか読みます)。

ただまあこれは、当たり前といえば当たり前、ではある。口を閉ざしている人たちは、けっしてフェミニストじゃないのにフェミニズムを口走っていたというわけではあるまい(中にはそういう人もいるかもしれないけど、でも大半は違うよねえ)。彼女ら彼らは、単に利己的に行動しているだけだ。

 

といったようなことを考えていたときにふと気づいた。フェミニズムって、まさにそんなリスクを分散する機能があるんじゃね?

たとえば渡部直己の問題を、文学界隈の外から見てみよう。渡部らのようなセクハラを許すような人たちを批判することは、男女不平等の改善などいろいろな形で、彼女らの利益となるだろう。そしてそれより重要なのは、外部の人は文学界隈から嫌われたとしても、別に痛くも痒くもないということだ。この構造があるおかげで、多くのフェミニスト(除く文学関係者)は少ないリスクで渡部らに抗議できるというわけ。

じゃあ、フェミニストを自称しているのに今口を閉ざしている文学関係者はフェミニスト失格なのか? そんなことはない。彼女ら彼らは、他の分野で問題が起こったときに、ちゃんと口を開けばいい。おそらくその分野の関係者のフェミニストは、今の文学関係者と同様に口を閉ざすだろうから、そのときにその人たちのかわりに抗議してあげればいい。

 

一応予防線を張っておくと、こういうふうに「女性」というくくりで雑に連帯するのは、若干の危うさを孕むものではある。もっともわかりやすい例は、アメリカで、主流派フェミニストのいう「女性」は「白人のインテリ女性」だといって、黒人女性がフェミニズムのメインストリームから離れていった、という話だろう(たしか大塚愛子『フェミニズム入門』で読んだ)。あるいは、最近話題の『幸色のワンルーム』問題で、一部のフェミニストが『幸色のワンルーム』をオタク向けマンガだと勘違いしたこととかね(これは非インテリ女性に対する軽視)。

でも、女性が「女性」という雑なくくりで連帯するのは、ポジティブな側面も十分にある。それを頭の片隅に置いておいて損はないだろう。ということで、文学関係者を除くフェミニストの皆さんは、渡部直己および早稲田大学に抗議しましょう。

 

フェミニズム入門 (ちくま新書 (062))

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