どうしてぼくたちがバカなのかはわかるけど/網谷祐一『理性の起源』

 

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

 

 副題詐欺。ぼくたちが一見すると「愚かすぎる」のはなぜなのか? という疑問については、かなり詳しく、説得的に説明してくれる。しかし、なぜぼくたちはこんなに「賢すぎる」のか? という、もう一つの疑問にはあまりしっかり答えてくれない。なので、いい本なんだけど尻すぼみになってしまっていると思う。

 

 この本のテーマはズバリ、「人間理性が自然選択によって進化したのなら、どうしてわれわれはこれほど理性的なのか」(網谷祐一『理性の起源』河出ブックス、2017年、p.43)と、「人間の理性が自然選択によって進化したのなら、どうしてわれわれはこれほど賢い(=過剰に賢い)のか」(p.44)だ。それは、この本の序章や副題からも明らか。

では、網谷はこの2つのテーマにどう切り込んでいるだろうか?

 

まず網谷のいう「愚かすぎる」というのは、よくよく説明されれば簡単に解答できそうな問題を、ぼくたちの多くがしばしば間違える、ということ。このような脳の錯覚みたいなものの例を、この本ではいろいろ取り上げる。

では、なぜぼくたちはそんな脳の錯覚を起こすのか? この本ではそれに対して、「直観的理性」と「熟慮的理性」という2つの過程があるのでは、という説を提示する。

「直観的理性」とは、簡単にいうと推論をショートカットするような思考過程のこと 。 それに対して「熟慮的理性」というのは、文字通りじっくりと考えるような思考過程のこと。ぼくたちはこの思考過程をうまく使い分けることにより、簡単そうな問題に対して過剰に頭を働かせることを抑えたり、難しい問題を単純に考えずにじっくり考えたりできるので、その分適応度が高くなる、というのが網谷が提示している説だ。

この話は、かなり納得のいくものである。理屈として筋が通っているのはもちろんのこと、なんで一部の実験ではぼくたちが「愚かすぎる」のかについて、「一部ではミスっても、普通は適応度が高くなるからだよ」という極めて明快な答えが出てくるのはすばらしい。

ちなみに、この本では紹介されていないんだけど、似たような例として「錯視」が挙げられる。いろいろな錯視の例を見てると、ぼくたちの目はなんて騙されやすいんだ! と思ってしまいがちだ。けれど、これはむしろ、目が生きるのに都合がいいようにちゃんと働いていることの証拠で、錯視はその副作用みたいなものだ(という話をどっかで読んだ)。この話と「直観的理性」の話はよく似ている。

 

さて、ぼくたちがどうして「愚かすぎる」のかはよくわかった。じゃあ、もう一つの疑問に移って、ぼくたちはどうして「賢すぎる」のかというと……。

実は、この本ではその疑問について、あまり明確に答えてくれないのだ。

まず、「賢すぎる」というのは、相対性理論みたいな、明らかに適応度が高くなりそうにない賢さを人間が持っている、ということ。そして、もちろんそのことについて考察がないわけではない。「熟慮的思考」から発展して、人間には心的リハーサルとかプランニングとかワーキングメモリとかあって、狩猟採集民も実はとても「科学的」な思考をしてて……と、ぼくたちが相対性理論みたいな科学理論を理解できる前提となるメカニズムをいろいろと教えてくれる。

でも、これは全部至近要因の説明なのだ。そして、究極要因についての説明は全然ない。

確かに、網谷の説明で、ぼくたちがむちゃくちゃ難しい思考ができる前提条件(=至近要因)はわかる。でも、じゃあなんでわざわざそんなむちゃくちゃ難しいことを考えなくちゃいけないのか(=究極要因)? 網谷はこのことに答えてくれない。「愚かすぎる」のはなぜか? という疑問に対しては、至近要因も究極要因もきっちり答えているのに。

……まあ、なんでアインシュタインがあんなわけわかんない理論を発展させたの? と言われても、「知らねーよ単なる偶然だよ」としか返せないのかもしれない。それは仕方のないこと。でもそれだったら、究極要因がわからないということぐらい、しっかり明言してもいいんじゃないか?

 

ところで、この本には一つ変なところがある。それは、スティーブン・ジェイ・グールドを引用しつつ、「なぜなぜ話」の危険性を指摘するところだ。

グールドは進化論を扱う際に、ありそうなシナリオ=「なぜなぜ話」(≒究極要因)を言うのはダメで、それを支える証拠(≒至近要因)こそが重要なのだという話をしている。そして網谷も、グールドの議論をほとんどそのまま受け入れている。

……が、吉川浩満『理不尽な進化』などで詳しく述べられているように、この話はリチャード・ドーキンスダニエル・デネットによってボロクソに叩かれており、それらの批判はほとんど正しい。ドーキンスデネットは、「なぜなに話」こそが重要だときっちりグールドを批判し、しかもデネットに至っては、グールドだってすばらしい「なぜなに話」をしているじゃないか、という痛烈な一撃を加えている。

さて、このことは、進化論をそこそこ勉強している人にとっては有名な話だ。じゃあなんで、網谷はドーキンスデネットの批判を無視して、グールドの「なぜなに話」批判を簡単に受け入れるのか?

ここからは下衆な勘ぐりになってしまうのだけれど、網谷はもしかして、この本の人間の賢さについての議論には究極要因が足りていないというのをしっかり自覚しており、その誤魔化しあるいは言い訳のために、(少なくとも日本では、かなり変なことを言っているというのがあまり知られていない、けれど有名な)グールドを利用しているんじゃないか? もちろんこれは推測にすぎないし、物的証拠はない。でも、状況証拠あるいは「なぜなに話(!)」としては十分だ。そしてもし、本当に網谷が自分の議論を誤魔化すためにグールドを引用したのなら、がっかりせざるを得ない。

 

ということで、「愚かすぎる」ことについてかなりうまく説明していた中盤まではかなり面白かったんだけど、「賢すぎる」ことについて説明しきれていないので、尻すぼみ感は否めない。でも、進化論~進化心理学の大まかな見通しとしては十分だし、トリビアもいろいろあるので読んで損はしないと思う。

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

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