「作者の死」の死

要約

「作者の死」でバルトは「作者」を時代の産物としているが、そうであれば時代の変化により「作者」が復活する可能性がある。そして現代では、インターネットによって「作者」の存在が強化されるのではないか。



0.はじめに

togetter.com
桜庭一樹鴻巣友季子の揉め事が話題となっている。桜庭の小説を鴻巣文芸時評で取り上げたところ、それに対して桜庭が抗議を行い、ちょっとした論争めいたものに発展している。

ぼくは桜庭の小説を読んでないので、両者の主張がどこまで妥当なのかは判断できない。ただ、一点気になるのが、この話題に関して鴻巣を擁護する側が「作者の死」を持ち出している部分である。「作者の死」は、ポストモダン思想の代表的な概念として、かなり人口に膾炙している。

でもそれってどこまで妥当なんだろうか?

1.「作者の死」とはなにか

ロラン・バルトは以下のように、作者という概念は近代において作り上げられたものであると主張している。

作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である。われわれの社会が中世から抜け出し、イギリスの経験主義、フランスの合理主義、宗教改革の個人的信仰を知り、個人の威信、あるいはもっと高尚に言えば《人格》の威信を発見するにつれて生みだされたのだ。それゆえ文学の領域において、資本主義イデオロギーの要約でもあり帰結でもある実証主義が、作者の《人格》に最大の重要性を認めたのは当然である。(ロラン・バルト『物語の構造分析』みすず書房、1979年、p.80)

そしてバルトは、作者と作品を結びつけることを批判し、作品はそれ以外にもさまざまなエクリチュールによって成り立っている(=「テクスト」)と主張した。近代からポストモダンの時代に移ることにより、作者という概念は死んでしまうのである。

2.「作者の死」の問題点

ここでぼくが注目したいのは、バルトが作者という概念を「社会によって生みだされたもの」であるとしている点である。バルトにとって作者という概念は、近代という時代のさまざまな歴史的背景によって成立しているものなので、ポストモダンの時代においては作者という概念は弱いものとなってしまう。

でも、今ってポストモダンの時代なの?

ぼくは違うと思う。ポモに批判的な人であれば『「知」の欺瞞』などを当然思い浮かべるだろう。ポストモダン思想に親和的な人でも、ポストモダン思想を現代風にある程度アップデートさせた形で使う場合が多い。「ポスト・ポストモダン」みたいな言い方は、ポモ批判の文脈以外でもしばしば見られる。

そうなると一つ問題が出てくる。近代という時代において成立した作者という概念は、ポストモダンの時代では「死んだ」。でもそのことは、その後の時代において作者が死んだままであることを意味しない。作者という概念が時代による産物である以上、その後の時代において作者という概念が復活する可能性は排除できない。

3.インターネット、ブログ、SNS

では、実際のところどうなのだろうか? ここからはかなりぼくの主観になってしまうのだが、ぼくは現代には作者という概念が重要視される要因があると思う。それはインターネットだ(非常に陳腐な意見で申し訳ないのだけれど)。

もちろん、インターネット初期においては、ある程度技術的な知識が必要だったため、実際にインターネットで意見を発信できる作者は限られていただろう。でも、ブログを簡単に作ることができるようになると、作者がインターネット上で自分の意見を発信するハードルはグッとさがった。そしてTwitterをはじめとするSNSの登場で、作者は当たり前のようにインターネットで意見を発信するようになった(意図的に避けている人以外は)。

インターネットの発達により、作者が作品を通さずに意見を発信できる場はかなり広まっている。また、読者もより作者に対して関わりを持てるようになっている。そのような時代において、作者という概念は強化されるのではないか。

もちろんこんなことをロラン・バルトが想定しているわけもないので、これを持ってバルトやポストモダン思想全体を批判するのは不当だろう。でも、少なくとも「作者の死」という概念の絶対性はかなり揺らぐはずだ。

4.おわりに

というわけで、「作者の死」とインターネットの関係を前々から考えていたのだけれども、たまたま桜庭一樹Twitterで作者性を存分に発揮していたので、ドンピシャじゃねーかと思って文章にした。

念の為に言っておくと「作者の死」が絶対ではないからといって、「作者」という概念が絶対になるわけでもない。ぼくが2で展開した論法とまったく同じ論法で、今後作者という概念が弱くなる可能性はいくらでもある。過激なことを言って注目されたいという邪な思いから、この文章のタイトルを「『作者の死』の死」としたが、実際のところは「作者の死」的な読み方も「それなりに」有効ではあると思う。個人的にも、作者に依らずテクストを読むことの楽しさがあるというのは十分にわかっているつもりだ(とはいえ、作者に意図的に依って作品を読むのがめちゃくちゃ楽しい場面というのもあると思う)。

どちらかというと、ぼくはむしろ「作者の死」が絶対という感覚にこそ違和感を覚える。作品によって都合よく「作者」と「作者の死」を使い分けるとう態度は割とアリなのではないか? 少なくともぼくは、そういう「軽薄な」態度を取ることにより、限界まで読書の楽しみを増やしたいと思う。