これ『ロリータ』?/谷崎由依『囚われの島』

 

囚われの島

囚われの島

 

 1章を読み進めているときのワクワク感はすさまじい。幻想文学に蚕を中心としたさまざまなイメージを重ねて重層的にし、フェミニズムや進化論っぽい話まで入り混じってくる。単にどれもぼくが好きなテーマだから、というのもあるけれども、それでもそれだけのテーマを違和感なくまとめられるのはすごいはず。2章の民話パートは多少間延びしている気がしないでもないけど、民話的な語りも上手なので悪くない。

だからこそ、3章で話をまとめず、むしろ発散させたのは大変残念。1章や2章では幻想文学っぽい話になりつつも、かなり抑制のきいた調子で客観的な描写を貫いていたのに、3章になると半分くらいがふわふわとした主観描写になってしまって、たいへん話がぼやける。もう半分は客観的な描写ではあるけれども、その一方で優性遺伝子と劣性遺伝子が逆転するだとか、なーんかまぬけな話ばっか。だいたい、「私」が生殖なしに広がっていくのがテーマなら、主人公の由良が盲目になる一方で盲目だった徳田の目が見えるようになるというのは不要なのでは?

うーんけっこう面白かったんだけど、終盤のグダグダ感はいまいちなので残念……。

 

というのが普通の読み方。でも、実はこの小説には、変な仕掛けがある可能性がある。

由良が徳田の部屋で生殖のできない蚕を見つけ、それを蚕糸研究所に持っていって鑑定をしてもらい、その蚕が文献による伝承しか残っていない蚕と極めて近いという鑑定結果がでる、というエピソードがある。

そう思いつくと居ても立ってもいられず、鞄に忍ばせてきた清潔な蓋付きのシャーレに、四齢の幼生をひとつ桑の葉ごと隠して、蚕糸研究所に鑑定を依頼したのだった。結果は、失われた蚕に極めて近いというものだった。(谷崎由依『囚われの島』河出書房新社、2017年、p.107)

 ???????? どうして、その蚕が文献による伝承しか残っていない蚕と極めて近いということが判断できるんです????? いつ失われたかは明言していないけど、遺伝子情報は残っていないだろうし、そもそも「極めて近い」といえるのであれば、それはもう「文献による伝承しか残っていない」とはいえないはず。だから、ここの一説は意味不明だ。

また、その前に「そんな(評者注:生殖をしない)品種の話は聞いたことがなかった」(p.102)とあり、その後に上記の引用部があり、それが文献に残っているという話がでてくる。つまり、生殖のできない蚕が文献に残っているという情報を、由良はおそらく蚕糸研究所から手に入れている。

……これ、由良は騙されたのではないか? 生殖をしない蚕はありまぁすと、由良は高らかに宣言させられたのではないだろうか。そして、そんなの騙されているだけだと見抜いた上司によって一蹴され、私は男性中心主義の被害者だと妄想を爆発させて、ついにはたくさんの「私」と戯れるような精神状態に陥ってしまったという話にはならないだろうか。

 

まず単純な反論として、その仮説だと徳田の目が見えるようになったことの説明がつかない(ただし、徳田の目が見えるようになった、というのも客観的な情報ではないので再反論はできるが、だんだんポイントがぼやけてくる……)。そしてそれよりも根本的な反論が、「そんなの単なるミスじゃないの?」というツッコミだ。

たしかに一般的に、こういったミスともとれる描写をとっかかりにわけのわからない結論を導き出す読み方は、単なる深読みである場合が多い。だが、谷崎の場合は、単なる深読みではない可能性もある。というのも、谷崎は若島正の弟子みたいな立場にあるからだ。

谷崎はたしか、大学生の学部時代に若島正のもとにいたはずで(院は違う)、その縁で、今でもときどき一緒に仕事をしている。その若島正は、ナボコフ訳者のボスであるだけでなく、リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』ジーン・ウルフの諸作などの、上のような仕掛けのある小説を訳している(もちろん『ロリータ』は言わずもがな)。その若島の好みが谷崎にも影響を与えたという可能性はある。

ということで、決定的な証拠がないのでわりと苦しいんだけれども、谷崎がわざと矛盾点を作った可能性はあるでしょう。もしこの謎がすっきり解明されたら、ぼくのこの本に対するネガティブな評価も覆るかもしれない。