なぜ市川沙央『ハンチバック』の冒頭には三文エロ記事があるのか

重度の障害を持つかたわら文學界新人賞芥川賞を受賞し、挑発的な記者会見も含めてたいへん話題となった市川沙央『ハンチバック』ですが、この小説の冒頭には「都内最大級のハプバに潜入したら港区女子と即ハメ3Pできた話(前編)」というタイトルの三文エロ記事が配置されている。内容もほぼタイトルから推察される通りのうさんくせーエロ話であり*1、この点だけでもだいぶ奇っ怪で物珍しい小説ではあるのだけれども。


ただ、本当にそれだけか?


『ハンチバック』主人公は市川と同じく重度の障害を持っており、「歩道に靴底を引き摺って歩くことをしなくなって、もうすぐ30年になる」と描写されている女性だ。なのでこのエロ記事は、(男性視点で書かれた文章であるというのも含めて)ほぼほぼ主人公の空想の産物だ。他の三文エロ記事を参考にしてこういう記事を書いているという背景があるのだろうが、どちらにせよ実体験なんてかけらほどもない、妄想によって作り上げられた文章であることには代わりはないだろう。

ところでこの小説は、当たり前だが障害の当事者という立場から書かれた小説である。作者と主人公を雑に重ねるような読み方には留保が必要だという風潮はまだまだ根強いものの、小説内でも主人公は障害者に関する参考文献を読んでいるし、インタビューでも「はっきり当事者表象をやろう」と語っているし、そもそも市川の大学での研究テーマも当事者表象だ。これはまあ「障害の当事者」がテーマのひとつであることに異論はないでしょう。

というのを踏まえた上で冒頭の三文エロ記事を考えてみたときに気づいたんだけど、これ、「実体験のかけらもないクソみたいな文章」なわけで、すなわち「当事者性の欠如」なのではないか? もしかしてだけど、当事者じゃない人間が書いた文章なんて冒頭の三文エロ記事に勝るとも劣らないクソだ、みたいなこと言っていない?*2

もしこれを意図的にやっているのであればかなりテクニカルな作家だと思うし、天然でやっているのであればそれはそれですさまじい天才だと思う。ちょっと市川沙央から目が話せなくなってしまった。



おまけ。仮にこの読みが的を射ているとして、ぼくはこれと似たような構造の小説をひとつだけ知っている。それは木下古栗「IT業界 心の闇」だ。あれは冒頭に週刊誌のクソ記事っぽい文章を配置して、その内容が微妙にクオリアだの叙述トリックだのと呼応しているような作りになっており、こちらもだいぶすごい小説なのだけど、『ハンチバック』は技術面だけ見ても古栗に勝るとも劣らないんじゃないかな。

というか全体的に、『ハンチバック』のいい意味での低俗さは、木下古栗に通じるところがあると思うんだよね。(いい意味で)意識の高い古栗というか。

*1:なお小説後半で、実はこのエロ記事にはちょっとした仕掛けがあることが明かされるのだが、その仕掛けについては本エントリーでは考えない。

*2:芥川賞記者会見のニコ生で栗原裕一郎も言及していたが、北条裕子『美しい顔』事件を対比して考えるとわかりやすいかもしれない。