なぜ市川沙央『ハンチバック』ではネットスラングが多用されているのか

市川沙央『ハンチバック』についてもういっちょ。

『ハンチバック』を読んでふと気になったのは、ネットスラングの多さだ。「◯◯み」とか純文で使う言葉じゃねーぞ。中卒の人間が大学の通信課程に通うのを「学歴ロンダリング」と表現するのは、だいぶ学歴厨が過ぎる*1。「裏オプ」とか文芸誌読んでる爺さん婆さんどもには通じなくないですか? 直接的な言葉選びから細かい文体まで、ところどころにネット文化圏の影響を感じずにはいられない。ツイッターとかで調べてみても、そのような感想を抱いた人は多少いるようだ。

で、これなんでなんすかね。


ネットにどっぷり使っているから、というのが直接的な答えだろう。主人公はクラウドワークスで三文エロ記事を書いて小銭を稼ぎながら*2ツイッターと思しきSNSで健常者に対する呪詛を発信しており、R18のティーンズラブ小説家としての顔も持っている。そりゃまあ、ネットスラングを多用するのも当然だ。

だが、ではなぜ主人公はネットにどっぷり使っているのか、という問いを続けると、だいぶ話は変わってくる。それは順当に考えれば、重度の障害で外出やコミュニケーションもままならない主人公にとって、現実よりもネットのほうが近い距離にあるからでしょう。あるいは、市川はこの小説のテーマのひとつに「読書バリアフリー」を挙げているけど、その観点からいっても、主人公にとっては本の清く正しい文章よりもネットの汚く間違った文章のほうが身近でも全くおかしくない。

さらに作者自身の話にまで射程を伸ばせば、そもそも市川自身ネット文化圏の影響を強く受けている可能性もあるだろう。インタビューで市川は、以前はライトノベルの賞に小説を投稿していたことを語っているし、ネットとの親和性も普通に高そうだ。そしてその理由のひとつには、市川が障害者であることもあるはずだ。というかネットに明るくない人間が文体模写をしてこの小説を書き上げていたら、それはそれで尋常じゃない天才でしょう。


というわけで、『ハンチバック』で多用されているネットスラングは、実は主人公および市川の障害と関わっていると思います。何も考えず「ネットスラングが多用されていて汚い」とか言っちゃうとポリコレトラップカードの反撃を食らうことになるのでご注意を。

*1:ぼくもそれなりには学歴厨ではあるのだけど、学歴ロンダリングという言葉をこの用法で使うのはあんまり見たことがない気がする。普通学歴ロンダリングって偏差値の高くない大学から偏差値の高い大学の院に行くことを指すパターンが多いので。その用法よりも『ハンチバック』での用法のほうが一段きつい表現に感じた。

*2:この三文エロ記事については、ぼくが昨日書いたエントリーも参照のこと。