家政婦の歴史と、木下古栗の受けたパワハラ

濱口桂一郎の新刊『家政婦の歴史』を読んだんだけどこれがとんでもなくすさまじい本で、労働法にひっそりと書かれた時代錯誤な条文が戦後から今の今まで生き残っており、なおかつそのことに誰も気づいていなかったということを丁寧に実証していくというたいへんな労作であり、労働研究者らのフェミニズムへの関心のなさ(さらに穿った見方をすれば、フェミニストの労働問題への関心の弱さも?)を暴いた本として強烈に印象に残る。新書の書き手としてはベテランの濱口の軽妙な語り口も相まって、サラっと読めるわりにとてもスリリングな本でたいへんおすすめできる。

ただ、おそらく濱口は意図していないだろうが、ぼくがこの本を読んで感じたのは、人間は思った以上に尋常じゃなく視野の狭い生き物なんだろうな、ということだ。本書を書くきっかけとなった家政婦の過労死裁判の弁護を担当している明石順平らも、本書の中で批判されているような官報などの著者らも、別に極端にフェミニズム的関心がないというわけではないだろう。彼ら彼女らはたぶん家政婦の問題を本気で「見落としていた」のであり、濱口があらためて整理してしまうととんでもなくアホに見えてしまうという側面もあると思う。


ところでまったく関係のない話なのだけれど、ぼくは以前、木下古栗の初期短編が全然単行本にならないのは、講談社の『群像』の編集者からパワハラめいた扱いを受けたためだということを発見し、ブログにまとめた。これはもちろん古栗の扱いや、そのことをほぼスルーする出版業界の人々に不信感を覚えたためである。なので、この記事がまったく反響がなかったのにけっこうがっかりした。いやもちろんこんな零細ブログなんて誰もみてねーだろというツッコミはごもっともなんだけれども、とはいえ尋常じゃない古栗オタクも2~3人はいるんじゃないかと思っているので。

さらにいうと、実はこの記事を書いた後、古栗自身も2度ほどこのことについて触れている。『スピン』第3号に掲載されたエッセイ「不愉快な出来事の続編」では、『いい女vsいい女』が絲山賞を受賞したことから連想して当時のパワハラに触れており、フリー・グーグルトン名義で個人出版した『高尾症候群』では、自伝的なエッセイとしてパワハラを受けた当時の精神状態を詳しく語っている。しかしながら、今のところそれらについての言及は一切みられない。ぼくの記事に反響がなかったのは納得できるとしても、古栗自身の文章に反響がほとんどないというのはいくらなんでもひどくないか、とけっこう本気で憤っていた。

だが、『家政婦の歴史』に見られる人々のマヌケさを見てちょっと思いが変わった。たぶん古栗読者も、家政婦の問題を見落としていた人々と同じで、古栗の受けたパワハラを「見落としている」のだ。定期的にツイッターなどで古栗の情報収集をしている人なんてぼくしかいないんだろう。誰も『スピン』みたいなマイナー文芸誌なんて読んでないし、『高尾症候群』をきちんと読んだ人もぼくやmurashit以外ほとんどいないんだろう。ついでにいえば、ぼく自身も古栗に関してはかなり事実関係を把握しているが、他のいろいろな物事を見落としているのだろう。

ということで、ぼくの出版業界や読書家に対する不信感や憤りは、多少は解消された。必ずしも良いことではないような気もするけど。