差別的表現をメタフィクションで正当化するのはアリか?/川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』

巷でよく言われている、ブッキッシュな小説としてはちょっと微妙。ちょっと前にたまたま『本にだって雄と雌があります』を読んじゃったので嫌でも比較せざるを得ないんだけど、実在の小説家などをたくさん扱っている分よりペダンティックなのと、小田雅久仁のように特殊な語りでそこら辺を誤魔化すこともなく、むしろメタフィクションに寄せているため、その分だけ嫌な感じはある。あと、自画自賛がキモい。

他方、ゲイ文学あるいは恋愛小説としてはかなりよかった。ビート・ジェネレーションでドラッグでゲイでばんざーいみたいなクリシェに飲まれることなく、単に同性が好きなだけの普通の男性を描いていて好印象。恋人に対するアンビバレントな感情を丁寧に描いており、ベタっちゃあベタだがベタなりに面白い恋愛小説となっている。



ところで、この小説の冒頭には「本書には今日の観点から見れば考慮すべき表現がありますが、時代背景を考慮し、当時の用語・用法のままとしました。(編集部)」(p.4)という記載がある。たしかにこの小説では、「おかま」「ホモ」など現代では差別的という理由で自主規制されているような言葉が使われており、これらのことを指しているのだろう。でもこの小説は、アンソニー・アンダーソンという架空の小説家が書いた回想録を翻訳した、という体のメタフィクション小説である。だから、この冒頭の記載も当然メタフィクション的意匠だ。

でも……それってわりとまずくないか? 当たり前だけど、「おかま」「ホモ」といった言葉が自主規制されているのは、それらが差別的とされているからだ。もちろん、古い本や古い本の翻訳などで、当時の表現をそのまま使うという理由で、そういう言葉を使うことが許容される場合はある。でも、『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』は川本が2021年に書いた小説だ。なので、川本がやっていることは、メタフィクション的な文学的意匠ですというのを言い訳にして、普通なら自主規制されるような言葉を使うのを正当化してしまっているわけで、それはだいぶダメなのではないか、と思う。

ただ、川本がとんでもなく画期的なをやっているという可能性も少しだけある。上の批判は、現代的な表現の自主規制が正当なものである、ということを前提にしている。だから、もしそういう自主規制が不当なものだとすれば、ぼくの評価は180度ひっくり返る。もしそうだった場合、川本は現代に蔓延る不当な自主規制に抗う手段を発明したということになり、メタフィクションという形式も単なるお遊びや表現のバリエーションの1つというだけではなく、もっと積極的な意義を持つのかもしれない。

なお、もしメタフィクションが差別的表現を正当化できる場合、基本的には排外主義者やミソジニストなどの差別主義者たちにとって有利に働くだろう。