日本の労働社会のせいで日本は男女不平等なのかもしれない/濱口桂一郎『働く女子の運命』

働く女子の運命 (文春新書)
 

 日本がたいへん男女不平等な国だと言われているのは、各種ニュースでご存知の通り。先日話題となった、はあちゅうを巡る騒動なんかを見ても、なんとなくそれはわかる。はあちゅう個人のおかしさををフェミニズム全体の問題と同一視するような風潮は、まさに男尊女卑的な発想が多くの人に共有されていることを示しているように思う。

だが、なぜそんなに日本は男女不平等なのだろうか? 本書にもある通り、「前近代社会からずっと、日本は決して女性の地位の低い国では」(濱口桂一郎『働く女子の運命』文春新書、2015年、p.4)なかった。それが、近代を経て現代へと至る中で、逆にどんどん女性の地位が低下していったというのは、かなり変な現象に思える。これは単なる偶然なのだろうか?

 

 本書の主張は、日本独特の労働社会が、会社の中での男女不平等を産んでいる、ということである。

欧米の労働社会を、濱口は「ジョブ型社会」と呼んでいる。これは、「企業の中の労働をその種類ごとに職務(ジョブ)として切り出し、その各職務を遂行する技能(スキル)のある労働者をはめ込み」(同書、p.16)、労働者に仕事をしてもらう、という社会である。

一方濱口は日本の労働社会を「メンバーシップ型社会」と呼ぶ。これは、「さまざまな職務を企業の命令に従って遂行することを前提に、(今は特定の職務はできなくても)将来さまざまな職務をこなしていけそうな人を、新卒一括採用で「入社」させ」(同書、p.17)る、という社会である。

そして濱口は、「メンバーシップ型社会」こそが女性が働くことを困難にしている、と指摘する。女性は、少なくとも出産によって働くことができなくなる時期がある可能性がある。もし「ジョブ型社会」であれば、出産を機に仕事を辞めて専業主婦になるもよし、出産の時期だけ仕事を休んで子供を産んだ後は復職するもよし、ということになる。ところが「メンバーシップ型社会」の場合は、出産を機に仕事を辞めるという可能性がリスクになるのである。そのような社会では、当然女性が働くのは困難になる。

 

そして、この議論は日本の男女不平等について、より興味深い示唆を与えてくれるとぼくは思う(濱口は明確には述べていないが)。

男女の労働の不平等さが語られるときは、「男尊女卑だから、男女の労働が不平等になる」と考えるのが普通だろう。しかし本書の議論は、「メンバーシップ型社会」というガラパゴスな労働社会においては、男尊女卑が前提になくても「自然と」男女の労働は不平等になる、ということを示唆している。

さらにいうと、男女の労働が不平等であれば、当然ながら男性の権力は強くなる。するとおそらく、男尊女卑の傾向は強まるはず。つまり、「男尊女卑だから、男女の労働が不平等になる」だけではなく、「男女の労働が不平等だから、男尊女卑になる」という逆の因果関係も描き出せる。これはまさに、日本が他の国に比べてより男女不平等である原因なのではないだろうか?

 

さてこのように、日本独自の「メンバーシップ型社会」は「自然と」男女の労働を不平等にしている。では、我々はどうするべきだろうか。もちろん、じゃあ男女不平等でいいじゃんと開き直る人もいるだろう。でもぼくは、濱口が提唱するように、「メンバーシップ型社会」からの脱却を目指すほうが建設的なように思う。

 

 

 

おまけ。

これも濱口は述べていないんだけど、「メンバーシップ型社会」は男性が結婚を機に退職することを前提としていない。つまり、仕事は苦手だが家事が得意な男性が専業主夫として生きるという道も、実は閉ざされているように見える。あるいは、最近たまに話題になっているような気がする「男性の育休」なども、「メンバーシップ型社会」においては困難だといえるだろう。

フェミニズムの大部分と同様、本書の議論も女性だけのためにあるというわけではなく、男性のためにもなるのだ、