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あまりに完成度の高い物語を読むと人々の感想はコピペになってしまうということ/阿部共実『ちーちゃんはちょっと足りない』

 

 結構面白かった。そしてそれ以上に、完成度が異様に高かった。極めてよく練られた構成で、あんまり意味のなさそうだった前半4話ぐらいも、読み返すとちゃんと意味があることがわかる。ここまで過不足ない物語はなかなかお目にかかれないと思う。

それはさておき。このマンガの感想をネットでいろいろ漁ってみたのだけど、見てびっくり。みんなほとんど同じことを言っている。おもわずコピペかと思って目を疑った。が、よくよく考えてみればそうなってしまうこともよくわかる。それは、このマンガの物語の完成度が高すぎるからである。

 

 ネットの感想でみーーーんな言っているのは、このマンガの題名が客観的なものではなく、もう一人の主人公であるナツの主観的なものである、ということ。それはたぶんそのとおりだし、作者である阿部の意図するところだと思う。

が……よくよく考えて見ると、別にそう限る必要はないのでは、ということも言えると思う。だって、主人公のちーちゃんはやっぱり、足りないのだ。もちろん足りないから悪だ、とはならないけれども、標準的な健常者の基準から考えればやっぱり足りない。だからこのマンガのタイトルはやっぱり客観的でもあると思う。でも、他の人の感想でそういうことを言っているものは(ぼくの見た限りでは)見当たらなかった。

でも、そりゃあ当然なのだ。だって阿部がいいたいのはそういうことではないのだから。素直に阿部の意図する通りに読めば、このマンガのタイトルはやっぱりナツの主観となる。むしろぼくのほうがかなり変な考え方をしていると思う。

そしてそれを補強しているのが、このマンガの異様な完成度の高さである。エピソードひとつひとつにかなり丁寧に意味が込められているから、それ以外の解釈の余地が(ないとは言わないまでも)かなり少ない。それを読んだ読者は作者の意図どおりの感想を書き、出てくる感想はコピペのような、かなり似たような感想になる。

 

さて、それはいいことだろうか、悪いことだろうか? ぼくはどちらともいえない。

ぼくは、ナボコフとか伊藤計劃とか若島正とかが好きで、テキストを愚直なまでに文字通りに読んで、そこから異様な結論を出す読み方が好きである。早坂吝『虹の歯ブラシ』の感想で、ぼくはこの小説が無限に発散するのではないかということを書いたけど、それもそういう読み方の一種だと思う。ぼくはこういう読み方は読書の楽しさを圧倒的に増やすものだと思う(し、だからこそそういう読み方が好きなのだ)。

で、このマンガでもそういう読み方をやってみようとしたんだけど……隙がない!!! どーにか先述の「ちーちゃんはやっぱ足りないのでは?」という読み方をひねり出してみたけど、たいして面白みもない。読み返すときに「実はちーちゃんは悪いことだとちゃんとわかっていながらバスケ部のカンパを盗んだのでは?」みたいなことを言えたらいいなーと思っていたんだけど、そんな粗は一切ない。

そして、そういう解釈が一切できなかったときの完敗感。うーんぼくは阿部共実に負けてしまった。でも、そこまで真剣に疑り深く読むのは楽しいし、負けても充実感はとてもある。そういう意味で、「解釈がさっぱりできない」ものも、それはそれで面白いのだ。