そんなに一生懸命「伊藤計劃以後」を終わらせなくてもいいんじゃないの/赤野工作『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム

 

 ぼくは、円城塔twitterでこの小説を絶賛してるのを見てこの小説を知った。そして、一つの疑問を抱いた。なんで円城はこの小説を褒めているの?

この小説は、表向きは、架空のゲームレビューの体裁をとったメタフィクションである。ちょっと小説について詳しい人は、すぐにボルヘスとレムを思い浮かべるであろう。もちろん一定のオリジナリティはあるけれども、あまり斬新というわけでもない。

ゲームオタクがこの小説をすごいすごいと褒めるのは、わりと容易に想像できた。でも、円城がこの小説を褒めるというのはよくわからなかった。だって円城は、別にゲームオタクというわけではない(はず)。twitterでも彼がゲームの話をしているのはほとんど見たことがないし、彼の小説でも、ネットミームのパロディを除けばゲームの話なんてしていた記憶がない。そんな円城が、この小説を褒めるってどういうこと?

そんな疑問を抱きながら、ぼくはこの小説を読み始めた。そしてこの小説を読み進めるうちに、その疑問への答えが見つかった、かもしれない。

 

この小説の大半は、「架空の低評価ゲームのレビュー」に費やされている。そしてそれはもちろんおもしろい。ウソだけどいかにもありそうなゲームソフトおよびそのゲームソフトの歴史を擬似的に教えてもらうのは、クソゲーオブザイヤーの選評やゲームカタログを見ているような楽しさがある。

また、単にゲームレビューとして面白いだけではなく、SFとしてもわりと完成度が高いのもポイント高い。もちろん、SFオタクとしては細かい部分で粗が見えたりもするが(まずい未来の人工肉とか。現代の人工肉食べたことある? わりと美味しいよ)、まあそれは許容範囲内。SF的なガジェットを上手くゲームと絡み合わせた上で、「絶妙に微妙な未来の低評価ゲーム」を想像するのは、ゲーム愛と技術愛のなせる技。

 

が……実は、この小説の核は、「架空の低評価ゲームのレビュー」の部分にはない。この小説の核は、レビューの合間に挟まれる「雑記」の部分にある。

この小説で、「架空のレビュー」を書いているレビュアーは、いい年して家族も持たずにひたすらゲームに没頭する、気持ちの悪いオタクじじいだ。年をとってもゲームから離れることができず、ゲームのために自分をサイボーグにしてしまうような、気持ちの悪いオタクじじいだ。

ところが、レビュアーは唯一サイボーグでは取り替えの効かないとされている「脳」が徐々に機能を停止し始めるという病気になってしまう。そしてその病気によって、レビュアーは徐々にゲームを楽しめなくなってしまい、サイボーグでは完全な脳の再現が不可能である「人工脳」を使うか、このままゲームを楽しめなくなるのかの2択を迫られる。

面白いのは、哲学的ゾンビだのテセウスの船だの、テツガクシャの提唱するコーショーな哲学的問題が、「たかが」人工知能が「ゲームを楽しめるかどうか」なんていうチンケでくだらない問題に接続されるところ。でも、とても熱っぽいレビュアーの語りによって、その切実さは痛いほど伝わってくる。ああ、なんてサイコーにキモチワルイ!

 

ところで、ぼくはこの「雑記」の部分を読んでいて、不意にある作家を連想した。そしてそれ以降、ぼくはその作家のことがずっと頭の片隅に残っていた。

その作家とは、伊藤計劃である。

とりあえず、藤田直哉による「伊藤計劃以後」の定義を見てみよう。

2、内容が変わった

・ネットワークで接続された存在であるというポストヒューマンのテーマ

脳科学の応用

・管理社会などのテーマの前景化。

・意識と社会の関係

 

藤田直哉「伊藤計劃以後とは何か?」

 まあ、「脳科学の応用」「意識と社会の関係」あたりは明らかに、この小説に反映されている。「管理社会」もちょこちょこ見え隠れはするし、「ネットワークで接続された存在」も……強引に読めばなんとか。そういう意味で、この小説は明らかに、広い意味での「伊藤計劃以後」の作品である。が……ぼくは、それだけを理由に伊藤計劃を思い出したわけではない。

前島賢は、「ボンクラ青春SFとしての『虐殺器官』 ~以後とか以前とか最初に言い出したのは誰なのかしら?~」という文章の中で、伊藤計劃という人物を「常にユーモアとサービス精神を忘れない「文芸サークルの理想の先輩」みたいな人だったと思う」と評している。そして前島は、『虐殺器官』の中に、そのような人物性が表れているとしている。

そのような「ボンクラとしての伊藤計劃」は、別に『虐殺器官』に限った話ではない。短編の「Heavenscape」は小島秀夫オタクが極まりすぎて書いた二次創作だし、「From the Nothing, with Love.」などは007のパロディ満載だ。あるいは「セカイ、蛮族、ぼく。」とか。あと、ぼくは気づかなかったんだけど、「The Indifference Engine」にも「エヴァ」や「らき☆すた」のパロディがあるらしい。うひーボンクラだあ。

でも、藤田直哉たちが語る「伊藤計劃以後」では、こういう「ボンクラとしての伊藤計劃」はなかったことにされていた。だって、キモいもん。だから、「伊藤計劃以後」には、「ボンクラとしての伊藤計劃」を受け継ぐ作家も評論家もいなかった。

 

だからこそぼくは、赤野工作『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』を読んで震えが止まらなかった。だってこれ、伊藤計劃じゃん。

あらためて言うけど、この小説に出てくるレビュアーは、「ゲームを楽しめるかどうか」なんていうチンケでくだらないことに延々と悩む、痛いほど気持ち悪いじじいだ。そんな気持ち悪いじじいが意識や脳や人工知能を語る。これが「伊藤計劃以後」でなくて何が伊藤計劃以後だ。

そしてそのことに気づいてからの読書体験は、とても心地よいものだった。「伊藤計劃『虐殺器官』の”大嘘”について」を片手に『虐殺器官』を再読したときのような、不健全な愉しみ。ぼくの目の前には一瞬だけ、たしかに伊藤計劃が現れていた。

もちろん、そんなのただの偶然の一致かもしれない。というか、赤野は対談で、「もともと僕は活字に触れてきていないんです」といっているので、たぶん伊藤計劃も読んでいないだろう。でも、偶然の一致でいいのだ。この小説は、伊藤計劃を幻視できるほどには「伊藤計劃以後」なのだから。だいたい、藤田が「伊藤計劃以後」として挙げてる作品の特徴だって、ただの偶然の一致だろう。

S-Fマガジン』編集長の塩澤快浩は、小川哲『ゲームの王国』の帯に、「“伊藤計劃以後”という時代は本作の刊行によって幕を閉じる」という言葉を寄せた。でも、もし『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』のような小説を提供してくれるのであれば、別に「伊藤計劃以後」を終わらせなくてもいいんじゃないかな。それが伊藤計劃の死体を使ったネクロマンサーごっこだったとしても。

 

さて、最後に冒頭の疑問に対する答えを書いておこう(ただし、答えるぼくも半信半疑である、と予防線を張っておく)。

Q.なんで円城塔は『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』を褒めているの?

A.亡き友人の幻が見えたから。

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

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屍者の帝国 (河出文庫)

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